ESSENCE 1



今日もまた罵り合いの応酬が家に響く。

何か大きなものが壊れる音もしたから、きっと母か父のどちらかが、感情に任せてそこらへんにあるものを手当たり次第に投げつけたのだろう。いくら修復呪文があるとはいえ、こうもぽんぽんと物を壊されては、たまったものではない。

わたしはその音をなるべく拾わないように、意識の外へと追い出しながら、二階に割り当てられた小さな部屋で、やたらとこむずかしい言い回しばかりする本をうんざりしながら読んでいた。どうやらこの著者は有名な人のようだが、こういった本は、むずかしく書こうとすればいくらでもむずかしく書ける。正直いって、こむずかしい言い回しでごまかしてるだけなんじゃないかなー、なんて。ほら、こういうのって学のない人が見てもすぐに理解できる内容を書く方がよっぽど大変なことだし、理解を深めていないとできないことだと思うし。

ページをめくるたびに溢れてくる、著者の「俺スゲー」感から逃げるように目線を外へ向ければ、どんよりと薄暗い景色が味気なく広がっていた。おかげで日当たりも悪く、さらに家が住んでいる場所の他は廃墟のようになっているところも多く、ついでにいうなら工場の近くにあるから空気も悪い。川近くの袋小路にあるここ、スピナーズ・エンドは最高に空気の淀みがひどい場所だ。一昔前のテムズ川じゃないだけましかもしれないけど、喘息持ちだったら一発アウトなんじゃないだろうか。

階下で一段と大きな音を立てて窓をたたき割った、私の母の名はアイリーン。そんな母に負けず、大きな声で彼女を罵り、喚き散らしている父の名はトビアス。…ここまでいえば、わかる人はわかるだろう。母の家名はプリンス、父の家名はセブルス。そう、私はかの有名なポッター少年が主人公の物語の登場人物として、生まれおちてしまったという訳だ。

私はつい最近まで呑気に学生をやって、そして流されるままに職について、社会人をやっていた居たって平凡な日本人。国外への旅行に憧れがあるものの、語学の不安やら治安の悪さから憧れのままで終わっていた、普通の人間。この物語とは、たまたま入った映画館で出会い、原作が児童書ということに戸惑いつつも続きが気になって購入したことから付き合いが始まったくらい。世に言う『ポッタリアン』には程遠い、にわかファン―――の、はずだった。

(それがいったい、どうしてこんなことになっているのやら)

仕事から疲れて帰って、寝て起きたら見知らぬ男女が流暢な英語で私に向かって話しかけてくるもんだから、そりゃあビビった。喋ろうにも言葉は出てこないし、それでもどうにか意思の疎通を図ろうとすれば泣き声になるし。私の言いたいことのかけらも伝わらなくて、やけになってワンワン泣いていたら、父がウンザリした顔で母に何か言った。それが、今日まで続く我が家のBGMの始まりだ。

母は、何かと言えば「あなたは素晴らしい血を引くのだから」というけれど、その素晴らしい血でなにかしてくれたという記憶はない。母がしてくれたことと言えば、私を産んで名前をつけて、そして子守唄の代わりに罵声と騒音を聞かせてくれたことぐらい。私の記憶の彼方にある、愛されていた日々とは程遠く、幼い私は段々と心を閉ざすようになった。

父の方はもっとひどい。私の家の金目当てに母に近づいてきた穀潰しで、母と派手な喧嘩を繰り返す以外にすることはないのかと思う。多分、外に別の女の人がいるのではないかと思っているのだけれど、それでも父が母と縁を切らないのは、母がそれなりの家に生まれた娘だからだ。…本当はこんな男、『父』なんて呼びたくはないのだけれど、私を産むための種を提供してくれたことには感謝していたから、表面上はそう呼んであげている。

「嬢ちゃま、お茶が入りましたよ」

しわがれたがらがら声で、がちゃがちゃと耳障りな音をさせてティーセットを持ってきたのは、我が家に代々仕えてくれているしもべ妖精のガートという。手に手を取り合って家を飛び出した母についてやってきて、そうして死ぬまで一生、母に仕えることを己の誉れとしている。ゾウみたいな耳はまるでボロボロの布雑巾のようで醜いが、唯一この家がまともに機能するように、最低限の世話を一人でしてくれていた。

「ありがと。…でも、緑茶にはミルクも砂糖もいらないのに」
「お茶にはお砂糖とミルクをひとさじずつ加えるものなのです。嬢ちゃまには、それがいまだにおわかりいただけないのです」

ぎょろぎょろした目をこちらに向けて小言を言うガートを無視して、私はほどよい熱さのそれに口をつける。プリンスの家を出てくるときにくすねてきたのだというティカップはなんともまあこの家に不釣り合いだ。爽やかな緑色が、懐かしい香りと共に喉をすぎる。おいしかった。

「……馬鹿のひとつ覚えみたいに砂糖加えりゃいいってカンジのお菓子と一緒に飲むにはちょうどいいじゃない」
「嬢ちゃま!そのようなお言葉を奥様がお耳になさったら大変でございます!」

がらがら声がヒステリックにわめきたて、口元に羽の飛び出しかかった枕を押しつけられたけれど、タイミングのいいことに、キッチンから派手な音がけたたましく家じゅうに響き渡ったので、ガートはギャッと悲鳴を上げ、パチンと棒きれみたいな指をならして、陽炎みたいに消え去った。あとには、喉の奥が焼けそうなほど甘いチョコレートと、ぬるくなり始めた緑茶がひとつ。

「入学までまだ二年もある……最悪だわ」

もはや文字を追い、英文になれる作業にしかならなくなってきた本の上に投げ出した、幼い手を見つめながらうめく。家から一歩も出ないせいで青白い肌。欠食児一歩手前というくらいにがりがりに痩せた、女の体。

本来ならば、男として生まれてくるべき彼の代わりに生まれた私に、何の因果か『リリィ』という名がつけられた。

…まったく。
あなたがここにいたら、私は、あなたが一体どれだけ彼女に執着しているのか問い詰めてる事でしょうよ。




11.07.11

13.01.26(一部修正)