触れるだけで我慢して



虫の声を聞きながら、ちびりちびりと冷酒を飲む。灯りはつけずに、月の明かりだけ。それでも、ネオンの町にいたときよりもずっと明るく感じる私は、随分とここでの暮らしに慣れてしまったらしい。五つに満たない頃は、日が沈めばまったく音がしなくなることに嫌気がさしていたものだけれど。音がなさすぎても耳鳴りがするなんてはじめて知ったよ。

舐めるように飲む酒は、じわじわと体を温めていくけれど、日が暮れてからは暑さも落ち着き、木々をかすかに揺らす風は、長く当たっていると涼しいどころか少し寒い。熱燗にすればよかったかなぁなんて思ったけれど、女中さんがせっかく気を利かせて冷やしておいてくれたようだし、ぬるくなるのを待ちながらのんびりすることにしよう。この時代での氷ってとっても貴重だしね。冷蔵庫に入れておけば、勝手に冷やしてくれる時代とは違うのだ。…とはいえ、夜風にずっとあたっているのはあまりよくないかもしれないけれど。私もそれなりに年をとってしまったので。

とはいえ、私がとなってから精々二十数年しか経ってないけどね。それでも、二十一世紀で暮らしていたころも合わせると、成人式が二回くらいはできるわけだ。うん、気持ち的にはおばさんだなあ。いや、おじさんか。おかげで、男の体と、『女だった』という精神のズレたような感覚も、最近ではあまり感じないようになってきていた。それでも、女の時の気持ちや感覚がなくなったわけではないので、自分でもその気持ちを捨ててしまうべきなのか、持っていてもいいのか判断がつかないでいる。

まあ、姉上に言わせれば、「お前は本当に男らしくない」とのことなので、サッサと捨ててしまった方がいいのだろうとは思うんだけれど…。女心って、女だった時でも時々分からないことがあったから、多少なりともその感覚は持っていたいかなあ、と思うわけですよ。立場上、幸以外の姫君にもお会いする機会はゼロではないわけだし。

……そうそう、女の私を生んでくれた母の記憶も、この頃めっきり薄くなってきた。子供の頃は、もうちょっと覚えていられたんだけれど、今じゃ、帰省するたびに、早く身を固めなさいよ!と小言をいいながら食事を作っていたなあ、ぐらいのことしか残っていないのだ。どんな声をしていたかとか、どんな顔で笑っていたのだとか。母以外の家族の事なんか、申し訳ないけど欠片も思い出せない。父と…妹か弟がいたような気がするけれど、それも曖昧だ。

でも、それも当然なのかもしれない。今、私は大谷としての人生を歩んでいるのだから。懐妊してるっていうのに戦場を駆け抜ける女傑を母に持ち、木製とはいえ両端が鋭く尖った槍(姉の身長を一回り小さくしたぐらいの大きさ)を振り回したり投影したりする姉と暮らしていたら、平和な二十一世紀の思い出なんて記憶の片隅に追いやられてしまうのかもしれない。……だって、あの人達本当に人間やめてるとしか思えないもの。

でもまあ、そんな人達に育てられた私も、人体発火能力というびっくり人間のようなことができるようになってしまい、立派に人外の仲間入りを果たしてしまったのだけれど。武道を私に師事してくれる人から、はじめてバサラの事を聞いたときだって、私は頭で考えるよりも先に「そんな馬鹿な」と口にしていたように思う。言ってしまったあとで、青くなった私を見た師匠は、豪快な笑いのあと、「心配ご無用ですぞ。とてこの大谷の血を引くもの。必ずやバサラを扱えるようになりまする」などと励ましてくれたっけ。どうやら、師匠は私が男児であるから引け目を感じていると勘違いしてたみたいなんだけど、私としては、適正なしってことでとっとと出家して戦と縁のない暮らしがしたかったんだよなあ。一体全体、どうしてこうなってしまったのやら。

そんなことを考えながら再び酒を舐めていると、ふと廊下の角に人の気配が立った。そわそわと落ち着きのないその気配は、戦場のどこにいても探し出せる。…まあ、これも大谷にいた頃、最低限の気配は分かるようにと徹底的にたたき込まれた成果だけど。おかげで、一時期不眠症になりましたとも。あの人達、寝ている時が一番無防備だとかで、うとうとしたと思ったら得物持って殴りこみにきてたからね。まあ、さすがにやり過ぎだったのか、大谷お抱えの医師にこっぴどく怒られていたけれど。

気配の主は、多分、隠れているつもりなのだろう。こちらの様子をうかがっているのが丸わかり空気に、気づかれないように小さく笑って、持っていた盃を床に置いた。

「眠れないんですか?」
「!」

気づかれないと確信していたのだろう。はっと息をのんだその人は、しばらく待っていると観念したようにそっとこちらへやってくる。櫛を通すためにほどいたのだろう。襟足から長くのびた髪が、鳥の尾羽のようにゆるりとついてくる。最近、ようやく一六になった幸だった。

「眠れないんですか?」
「いえ、その…ええと……」

再び質問すると、幸は面白いくらいにぎくりとして固まった。ぐるぐると泳ぐ視線に、なんとなく察する。夫婦になってしばらくだが、共に夜を過ごしたことはほとんどない。精々、幸が風邪をひいた時に看病してあげたとか、その逆ぐらいだ。さすがに中学生ぐらいの歳の女の子に手ェ出すとかね。二十一世紀の感覚が残ってる私からしてみれば犯罪だしね。

まあ、それでまわりが焦れたか、幸本人が焦れたかしたのだろう。城持ちである以上、子孫を残して城下の民を守っていくのは城主の勤めではあるし、分かってはいるのだけれど、やれ今日が仕込み時だのなんだのと言われると、ヤる気的なものがごっそり削がれる。そして萎える。

義務かもしれないけど、その気にさせるためには雰囲気とかもすごく大事だと思う。本気で。

私の質問にこたえるべく、うんうんと唸りだした幸に苦笑しつつ、なにかかけるものを探そうと腰を上げた。男である私ですら肌寒く感じるのだ。女の子だったら、なおさら寒いだろう。

適当に取り出した羽織を手に戻ると、幸はまだ唸っていた。こういっちゃあなんだけれど、幸は考えるより感じた方が早いし得意だから。一六にもなって初心だなあと思わなくもないけれど、この時代のように子供を生まなくてはならないわけでもないのに初体験が一二とかよりはずっといいと思ったりして。

いまだ頭を抱える幸にそっと羽織をかけてやれば、びっくりしたのか、もともと大きな目をさらに大きくして私を仰ぎ見た。この分だと、さっきまで悩んでいたこともすっかり頭の中から消え去ったんだろうなあ。

「夏でも、夜は意外と冷えますよ」
「……殿」

そのまま幸の隣に腰を下ろすと、盃を再び手に持ち、ぬるくなった酒を飲む。あからさまにじっと見る幸の視線を気付かないふりをするのは、いつものこと。初めのころは、何かいいたいことでもあるのかと思っていちいち聞いてたけど、その度に慌てて首を振って何でも!とか言われればさすがに気づく。

「…そう見つめられると、また穴が開いてしまいます」

苦笑して言えば、いつもなら顔を赤くして怒るのに、今日の幸はまるで捨てられた子犬のような目で私を見つめていて。

「痛みまするか?」
「薬が効いていますから、何とも。それにしても、佐助は本当に器用ですね」

まさか傷まで縫うとは思いませんでした。そう言葉を続ければ、幸はその小さなこぶしをギュッと握って俯いている。

「某が、伊達の姫と一騎打ちなどしなければ、殿は」
「それは違います」

日に焼けた手が白くなるくらい力を込め、その手にうっすらと鉄の匂いをまとわせた幸。一度こうと思い込んだらどこまでも突っ走ってしまう幸に手を添えて、やんわりとその手をほぐしてやる。案の定、くっきりと爪のあとが滲んだ手は痛々しい。

「貴方が何も考えずとも、敵を屠ることができるようにするのが私の務めなのです。貴方はこの真田の姫でしょう?大事な御身じゃありませんか」

大丈夫だとは思うけれど、一応念のために盃に新しく酒を注いで、その酒で幸の手をあらい、まだ使っていない布を持ってきてくるりと巻いてやる。抗生物質だなんて便利なものがないこの時代では、ちょっとの怪我でも命にかかわることがある。まして、幸は私なんかと違って身分の高い武家の姫なのだから。



万が一の可能性は、たとえ小さなものだとしてもつぶしておく必要がある。幼いころから刷り込まれていたことだとはいえ、身分の高い人のために命を投げ捨てるのは正直私の心が受け付けなかったのだけれど、戦場で幸に向けられた槍の先を見たとたん心よりも先に体が動いていた。

『…残念、狙いが外れたようですね』

男は、幸の守りが薄くなる瞬間を実にうまく狙っていた。幸自身の意識は、伊達の姫に向いていたし、その幸を守る佐助もまた、伊達の姫を守る右目と呼ばれる家臣の相手で手いっぱいだったのだ。

か…。わざわざ向かってくる馬鹿には用はねえ。どけ!』
『行かせない…!』

突き刺さった槍を勢いよく抜こうとした男の槍を、反射的につかんだ私に、男は一瞬の隙を見せた。だが、さすがに相手も武人。すぐさま、槍をひねることで傷を抉り、私の手を離させようとする。痛みで意識が飛びそうになるのを必死でこらえて、私は反対の手で掴んでいた得物を握りしめる。震える腕を叱咤して、力をふりしぼる。



――殿!

遠くで、幸の声が聞こえた。

――旦那!

佐助の声が、近づいてくるのを感じた。



『………あの子は、私の大事な人だ。あの子にこれを向けるなら、命の覚悟は、当然、しているのだろう………?』



あの時の旦那は、ぞっとするほど格好よかったよと佐助は言っていたけれど、正直なところ、痛みと恐怖ですぐにでも意識を手放してしまいそうだった。だけど、どうしても、幸にあの先が刺さるのを見るのは嫌だったのだ。だから、動いた。いわば、この怪我は私のエゴでできたものであって、幸のせいではないのだ。

だから心配する必要はないよ、という意味を込めて言ったのに、どうやら幸は違うように取ったらしい。布を巻き終わった私の手を握る。

「でも!某だって殿が大切にございまする!某のために、怪我なんてして欲しくはありませぬ!」

私の手を握ったまま、感極まってしまったのだろう。ぼろぼろと涙を流しながら、懇願するように手を顔に擦りつける幸。どうでもいいのだけれど、戦場で槍を片手にぶん回している握力で握られると、手が折れそうなんだけど。

「幸」
「そ、某がっ……ひぐ、男であればよかったのです。そうすれば、殿にこんな怪我、」
「……幸」
殿……」

いい加減、子供の頃のままだった癖を直すことを覚えて欲しい。無防備に感情を向けられて、薄い襦袢の体を預けられて、男の私が耐えられるはずもない。まして、こちらは怪我をしているとはいえもうほとんど傷も治りかけていて、体力は余っているくらいなのだ。潤んだ瞳に見つめられて、どくん、と私の中にいる獣が喉を鳴らす。

(……ああ、やばい)

その細い首の埋まっている袂を引き裂いて、思うがままに揺らして吐き出して。けれど、そんな獣のような欲望を何とか抑えつけて、そっと小さな唇に触れた。

「今日はもうおやすみください。このままいると、私の中の獣がいつ貴方を喰らうか分かりませんから」

なるべく怖がらせないようにとほほ笑んで伝えれば、幸は数秒遅れて首まで真っ赤になった。そんな幸を見たら、自分から彼女を逃がそうとしたのに、名残惜しくなってしまって。固そうに見えて実は柔らかい髪をそっと掴んで指に絡める。

「…構いませぬ」
「え、」

聞き間違いかと思っていると、幸は怒ったように「かまいませぬと言ったのです!」とそっぽを向いてしまった。けれど、そんな彼女の手はしっかりと私の着物を握っていて。

だから、もう一度その唇を奪った。逃げられないように、頭を押さえて、息もつけないくらいに深く幸の口内をあらした。本能のままに幸の体をむさぼることを恐れて、(だって、下手をしたらトラウマものだ。この子はまだ、恋に夢見る年頃なのだし)理性の端を手ばなしてしまわないようにするのは骨が折れたけれど、幸の顔が息苦しさに上気し始めて、ようやく私は幸から離れた。新鮮な夜の空気を肺いっぱいにとりいれた幸は、どこかぼうっとした顔で私を見つめる。幼さの残る顔立ちにのせられた色が、あんまりにも女のものだったから、私の胸が妙に跳ねた。…あぶない。

「お気持ちは、とても。ですが、背伸びをするだけではまだまだ、子供のままですよ」

一回りも小さな手をやさしくはがして、そう突き放す。

「焦らずとも、ゆっくり大人になられませ」
「……殿」

そっと頬を撫でた幸の顔に、ほんの少し落胆の色が見えた見えたのは、多分、私の思い違いなのだろう。




09.09.23  加筆:12.11.10