ひとちがい



あれから、私の頭の中をあの言葉がぐるぐると侵食している。何があったか、僕にはわからないけどと彼は言った。そして私は大量のアルコール摂取によって記憶がない。でも少し疑問に思う。じゃああの時あそこにいた男は誰なんだろう?小林さんに似ても似つかぬその容姿。アルコールのせいで幻覚でも見てたんだろうか。もしかして、あの男と彼は友人でせっかく泊めてやったのに吐かれたんだとかなんとか、愚痴でも言われたんだろうか。

仕事が定時に終ったというのに、嬉しさはわいてこなかった。一人、あの家に帰ることを思うと何もしたくない。電車に乗り込んで、久しぶりに実家に帰ろうかとも思う。そういえば、あの時あの電話をした時から何も連絡を入れていない。きっと心配されてるかもしれない。そう思うと、重い腰が少し軽くなった。椅子の背にかけていたコートを手に取ると、反対の手でバッグを握って事務室を出る。父と母に会いに行こう。そして、母の温かいご飯を食べに行こう。職員室の前を通り過ぎ、職員用の玄関で靴をはいていると、不意に背後に人の気配がした。

「あの、今お帰りですか?」

小林大和だった。

「ええ」
「あ、じゃあ一緒に帰りませんか。僕、もう少しで仕事終るんです」

これを自分の机に置いたら終わりなのだとにこにこ笑って言うものだから、特に断る理由も生まれずに私は頷くしか出来なかった。すると彼はさっきよりもうれしそうに笑ってちょっと待っててくださいねと声をあげると職員室へと駆け出した。戻ってきた彼はダッフルコートとマフラーにしっかりと身を包み、私と目が合うとはにかむように笑う。そして自分の下駄箱から靴を取り出すとその靴に履き替え、お待たせしてすみませんと謝ってきた。

「別にそんなに待ってませんから」

そう言うと、彼はにこ、と微笑んだ。それから真っ暗になった道を二人で並んで歩く。
話題は特に何もなく、星がきれいだとか、今日もお仕事お疲れさまでしたとか、そんな程度。もともと今まで接点がなかった私達に、盛り上がったり長続きするような話題もなく、二言三言で会話なんて終ってしまう。沈黙が重くのしかかって、押しつぶされそうだった。ふと、私の口が開いた。彼に何か言わなければと昼間から考えていた言葉を伝えるなら今だと思った。

「あの時私が何を言ったのか、正直私は何も覚えてないんです。でも、あれは私の話じゃないから」

何を言っているんだろうと思った。言おうと思った言葉とは違う言葉が、せきを切って溢れてくる。どくん、どくんと私の鼓動が耳元に響いた。静まれ。静まれ、私の鼓動、感情。こんなに離れているのに伝わってくる、彼が困惑しているという気配。でも、止まらない。

「あれは私の友達の話で。私じゃなくて。人違いで」

あれだけお世話になったのに、(少なくともそう考えざるをえない)私の口から出たのはちっぽけな意地だった。あの日彼の家に(多分)押し掛けて、さんざん迷惑かけた挙げ句ゲロ土産までした女をたった数日で忘れるほど彼は馬鹿じゃない。

「……そっか。良かった。僕はてっきり、さんが泣いている気がしたから」

ふんわり笑った彼の笑顔に、私の心が少し、悲鳴をあげた。人違いだなんて、言うだけ無駄な嘘なのに。どうして私っていつもこうなのか。一度言った言葉が取り消せればいいのに。素直に彼の優しさに甘えてしまえればいいのに。




05.11.13